Moinmoin.

俺の抱く「好き」という気持ちは、実は本当は「好き」ではないのではないか?ということをさいきんうすうす感じている。

と、言うのもどうもこういうのを感じる。

「好き」なのであれば、いきなりそれを伝えるのはありえん。また、すきなのであれば、デートをちゃんとさそって身なりなどを整えるはずだ。だから、それが入っていないすきは好きではないのだ。

確かにそうはそうだな。うん。納得する。だがメンドイ。するかどうかは別や。だったら俺が初対面の女に持つこの思いは何なのだろう。やりたいということか?そんなこともないけどな。好き未満ってことなのだな。

アタック野郎のポジティブ人生観

俺に、恋愛はどうだという人がたまにいる(正直意味不明なことだ、ドイツ人の女が好きだから、どいつ人女についてしりたくて?聞いてきたっぽい。本当ならなんだか無性に腹の立つ話だ。なんでよりによって俺に聞く)。その人たちはどんどんアタックしろという。彼らはこれまでの人生で当たり前のようにそれをしてきたらしい。その人たちは他人に興味をよく持つ人生を送ってきたらしい。アタックって何と聞いたら、どういう人生を送ってきたのかと言われることもある。皮肉じゃなく、非常に人間らしい生き方だと思うぜ。すげえよ。

俺にとって恋愛とは、意味不明なものだ。いちいち婉曲な言い回しをする。好意を伝えるためには状況が必要。何かしょうもない、と俺が思う、失敗をするとすぐに取り返せなくなる。なんで、あっていいな、おっぱいでけとおもって、何も、将来のことも考えず、すぐに好きなんだけどデートしないっていう流れが普通じゃないのか。別にそれは付き合うことを意味しないし、一回こっきり、それでいいじゃん。いや、普通なのか?なぜ我々は人のおっぱいをほめることができないのか。なぜ好意をわれわれはキモイと感じるのか。おれはどんなホモとか120歳のばあさんとか、くっせえ奴に好きだと言われてもきもいとは思わん。うれしいしょ。うーん、たくさんの人に好きって言われたり、ちわほやされると、人の行為を嫌うことができるのかな。なんかわかる気もしないでもない。だったら好かれない今の状況も悪いことばかりじゃないと思ってしまった。

アタック野郎の発言はなんかこう、うんざりさせる。俺は恋愛を恋愛としてではなく、そういうストラテジーを駆使してアタックするとか、そういうものでなく、もう少し冷静に、日常の延長でしたいという思いがある。なんかこいつ気に入ったな、デートすっかつって。「それはお子ちゃまな発想な気がするけど…。」と内心思う。だから、別に一生かけて誰にも男として好かれなくても、誰も好きにならなくても、いいじゃん。とも思う。それは寂しいかもしれんけど、まあそういうことなのだ。アタック野郎の発言は若いのはいまだけ、楽しい恋愛できるのは今だけ、人生は一回きり、楽しまなきゃ損ソン。という人生観+恋愛は人生の中でもかなり楽しいものだよ、たくさんの人に興味があるよみんなのこと知りたい、とかいうポジティブ人生観が透けて見えてしまう。本当はそうは思ってはいないのかもしれないが、どうもそういう解釈をしてしまって、なにかどこかつらく、あせらされている気分になる。それもそうだろう、今まで二十ウン年すごしてて、こいびととか、人に特段の興味を抱く(これはたまにある。だけどアタック野郎が言うようにまっさらな知り合った状態の人に対して抱くことはまずない。いままで3年くらい一緒にいた男友達に)とかそういったことがなかったからなあ。つまりこう、ポジティブ人生観を通して俺の今までを見ると、多少つらくなり、あせるのだ。まあいくらか慣れたが。けど俺は降参するつもりはない。日常の範囲内でちょこちょこやってみよう。お子ちゃま人生観を持ちつつ、ちょこちょこやったけど、なんもなかったぜーつって死ぬ。それが俺にあってるという負け惜しみを吐いて寝る。

嫌悪する権利とか言ってる奴いたけど、嫌いな奴なんかいないな。そんないなくね?1度Kにぶん殴られたことあったけど、別に嫌いじゃないよ。なんか、うっとおしいことを50回くらい、やめろと言ってもやるやつがいたら嫌いになるっしょ。

努力が報われるなどとは思ってはいけない。

努力したからこれをよこせとは言ってはいけない

ただ何も求めずに努力しなければいけない。

友達・恋人・同志

友達・恋人・同志の3つの関係を僕は知っている。
友達は気の合う仲間同士がなんとなくつながっている。そんな感じ。特に誰のためでもない、少し自分のための関係、なんとなくつながる。少し気持ちのいい関係。そこから何かが生まれることはあるけど、大したものじゃない、と思う。

恋人は2人のためだろう。なんか2人がどういう訳か好きになって、いるのだ。たぶん2人のための関係もしくは相手のための関係もしくは自分のための関係。うちへ内へとエネルギーは向かう。生まれるものも、彼ら自身のためのなにか。ほかの人が介在するなんて、無粋だしね。

同志は気の合うやつもいるけど気の合わないやつもいる。表立っては言わないけどね。別に少しくらい嫌な奴でも同志ならありだ。これは自分ら以外のための関係、まあ、最終的にはまわりまわって自分たちのためになるんだけど。外へ外へとエネルギーは向かう。そうやって何かが生まれることもあるし、埋めれないこともある。

恋人的学問は、誰かのために何かを調べること。それも誰か好きな人とか、大切な人とかの。彼らに向けられた知は、やさしい。たぶん。

友達的学問は、なんとなく存在する知。誰のためでもなく、知のために知が存在する。やってることはすごいことだけど、何となしな存在だ。イデオロギーのない学問万歳。妙な政治と切り離された学問万歳。知のために知は存在するのじゃ。

同志的学問は、学問のための学問じゃなく、生活、もっと言えば構造とか、まあなんだ、そういうものに対する学問。外へ外へとエネルギーは向かう。何かのための学問、特定の好きな個人じゃなく、自分のためじゃなく、なんか、社会とか?に向けた学問。もちろん、イデオロギーとか政治は入ってくるよ。多かれ少なかれね。

ある言葉が美しいとか、機能的だとかいうことがあるが、結論から言えば、そういうやつはくそだろう。うんちっちくんさんでしょう。

「美しさは主観的なものだから云々」とかそういう理由も結構だけど、俺がほんとに思うのは、美しいとか、機能的だとかそういうのを人様の言葉に向かって平気で