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Ik heb geen naam. Ik heet geennaam.

Das Geländespiel „Orita“

Auch in der Smart-Phone-Zeit spielen viele Kinder in Sapporo draußen. Sie spielen oft Fangen, Versteck oder Räuber und Gendarm, aber in Sapporo gibt es ein spezielles Spiel, das Orita (wörtlich: abgestiegen) heißt.

Meiner Erinnerung nach beginnt Orita mit einem Fänger und anderen Gejagten, und wenn der Fänger einen Gejagten berührt, wird der Gejagte zum neuen Fänger. Es gibt noch zwei wichtige Regeln in Orita, die das Spiel charakterisieren:

1. Der Fänger darf normalerweise nicht auf Anlagen im Park steigen, aber mit geschlossenen Augen darf er es.
2. Wer auf der Erde steht, wenn der Fänger „Orita“ sagt, der wird zum neuen Fänger.

Also geht Orita normalerweise wie folgt: Damit der Fänger nicht Orita sagt, bleiben die Gejagten auf den Parkanlagen wie z. B. der Rutsche. Der Fänger steigt daher mit geschlossenen Augen auf eine Anlage und tastet. Dann fangen die Gejagten an, von einer Parkanlage zu einer anderen Anlage zu schleichen. Aber der Fänger merkt dies und sagt (zu gegebener Zeit) (oder besser:) in diesem Moment „Orita!“.

Orita ist in mehrfacher Hinsicht ein interessantes Spiel. Kein anderes Spiel hat dieselben Regeln, soweit ich weiß. Aber die zwei Regeln von Orita, „nicht höher gehen dürfen“ und „Augen schließen“ sind genauso wie bei den Geländespielen Taka-Oni und Mekakushi-Oni (Blinde Kuh).

Ich persönlich habe dieses Spiel recherchiert, aber es scheint wenige zu geben, die das Spiel kennen. Ich selbst komme aus Ainosato, Kita-Ku in Sapporo und dort habe ich oft Orita gespielt. Letztes Jahr habe ich zufällig in einem Park in Higashi-Ku Kinder gesehen, die Orita spielten/gespielt haben Aber wie weit dieses Spiel in Sapporo verbreitet ist, weiß ich nicht.

文法性はなぜあるかと聞かれた時のおぼえがき。

性はなぜあるかと言われると、ちょっと難しいな...。しかしどんな時に使われるかとなると、性はまず何か名詞を受けるときに使われる。受けるものは代名詞でもいいし、定冠詞つきの名詞でもいい。

(1) Das ist mein Auto. Es ist kaputt./Das Auto ist kaputt. Das ist meine Katze. Sie heißt Shiro./Die Katze heißt Shiro. Das ist mein Hund. Er heißt Taro./Der Hund heißt Taro.

(ここで余談をいれてもいい。性は文章が長くなったときとかに便利である。

(i) Das sind Anna und Peter. Sie ist meine Frau und er ist mein Bruder.)

で、日本語では文法性がないわけだけど、たとえば、そこにいるA君を文脈の中で登場させてみよう。

(2) 昨日友達とあったんだ~。その人/そいつ/彼、Aって名前なんだけどさ~

代名詞「そいつ」「彼」とか、指示詞+名詞の「その人」みたいなので受けるよね。で日本語の代名詞は普通物を受けられないよね。でもドイツ語の代名詞は人も物も受けられるんだ。

代名詞でどの名詞も受けられる言語はこまるんだよ。範囲が広すぎて。

要は性って代名詞でどの名詞も受けられる言語で、それが指しうる名詞の範囲を減らすという意味で都合がいいと言うことだね。

有標と無標ってなんだ?

なんでplayとplayedだったらplayedのほうが有標なんだ。形態的な表示があるから有標だって言ってるけど、なんでなんかがついてる方が有標なんだ。どっちでもいいじゃないか。まあいいや百歩譲ってついてるplayedのほうが「ヘン」ってことにしよう。でも歴史的に見たら、何もついてないplayのほうが「ヘン」なんじゃないのか?あほらしいな。結局は周りの奴らの様子を見てそいつのことを決めるのか?言語の社会も人間の社会も同じだよ。played君、大変だね。

行くところまで行った、終局的な技術が人間にもたらすものとは何か。今井敦さんの論文が面白かったのでそれをかいつまむ。

F.G.ユンガーによれば、技術は新たなものを創造するものではなく、自然や人間の中に資源を掘り起こし、それを加工するようなものである。つまり技術は新たな「もの」を生み出すわけではなく、新たな「利用可能性」を見出すということである。技術は利用可能なものがないかこの世の隅々にまで目を光らせている。そしてあらゆる利用可能性がはぎとられた結果として貧困が現れるという。

その一方で技術は我々人間に対し、労働形態の変化という形で介入してくる。我々の労働は技術によって簡素化され、技術は我々の労働の一部を請け負うようになる。労働の簡素化は労働の法則性を機械が掌握していく端緒である。人間は徐々に主体性を失ってゆく。また、技術が労働を肩代わりしたところで労働時間の短縮という結果にはならない。というのも機械の発達は同時に収奪を加速させ、我々は多くのものを生産することを強いられるようになるからである。

成熟した技術が普及した「技術時代」にはかつての不動なものが流動化をプロセスを経て計算可能な価値へと還元される。我々は個人としての相貌を失い、すべてが量的差異へと還元するという。

ここからは拙々々論を披露する。さて、みなさん、方言は技術時代においてどのような役割を果たしうるのだろうか。

一つは質的差異を生み出すことができるという点。

もう一つは不動(「不変」ではない)のものを生み出しうるという点。

があると思いまーす。

10月12日

今日11時半ころ百年の前を通りかかったら、佐藤さんに出会った。2年ぶりくらいだ。やめたと勝手に思い込んでいたが、まだここで働いていた。遊戯王のことや吉田のことを話した。佐藤さんが昔の原付の免許をとった時のことを聞いた。佐藤さんは美幌出身だそうだ。懐かしい。

10月10日

何かが飛び交っている。テレビの音声、研究室の人間どもたち、講義の中、昨日食べた鍋スープに書いてある作り方説明。人参を先に入れようとする僕を制し弟はこう言う、だってそう書いてあるじゃん、と。学生たちは学ぶ。知の築き方を。どのような興味を持ち、どのように情報を集め、どのような文章を書くか、すべてが教える行為の対象になる。だって教えられてないじゃん、という不平に対し、我々はどう対応すべきなのか。んなもん知るかバカ自分で考えろ殺すぞ、というと怒られる。教えてなくて申し訳ないこれから教えます、と言わねばならないだろう。そう、すべては教えられることが要求されているのだ。レポートの書き方から鍋の作り方に至るまで、すべては教えられ、その欠落は非難の対象になる。

あほ